セリー主義と偶然性の音楽について

レポート第3弾。

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セリー主義と偶然性の音楽について

20世紀の音楽の第一の特徴は、調性からの離脱である。調性音楽は主音を中心にして他の音が関係づけられ、主音以外の音は主音への方向性を持つ。その方向性を強めるのが和声であり、和声を使うとパターン化しやすく、音楽は単調になる。主音がある以上、曲の途中で転調するなどしてもどうしても行き詰まる。この行き詰まりを打破するために主音をなくそうという発想が生まれ、調が曖昧になり、無調音楽へと繋がった。この無調音楽をシェーンベルク(1874—1951)が「十二音技法」によってシステマティックに実現した。

 

十二音技法は音の様々な要素のうち、音高のみを音列(セリー)化するものであるが、音色や持続、強度といった他の要素もセリー化しようとする「セリー主義」と呼ばれる音楽が、1950年頃から作曲されるようになる。そのきっかけを作ったのが、新ウィーン楽派の作品を分析し、若い作曲家たちに教えていたメシアン(1908—1992)の、《音価と強度のモード》という実験的な小曲だった。音高だけでなく、音価、強度、アタックまでの「音階(スケール)」が決定されているピアノ曲である。メシアンは1944年に、これら音高以外の要素までも音列的に組織化する可能性について、考えを巡らせていたと思われる。この曲はモードによるもので、音列によるものではないが、この作品が<全体的セリー主義>への道を開いた。この作品に刺激を受けたと思われる弟子のブーレーズ(1925—2016)やシュトックハウゼン(1928—2007)などが、様々な要素をセリー化し、その組み合わせで作曲することを試み始めた。セリー音楽は50年代に流行したが、全てをあまりにも微細に厳密に規定しすぎ、演奏家にとって正確な演奏が困難で全く自由がないことから、やがて反動が起きる。しかし、ほぼ同じ頃生まれた電子音楽という新たなメディアに取り入れられ、その原理は言語や音声などに対しても応用されることによって、音楽の可能性を拡大した。

 

1941年代終わりから50年代初めにかけての電子音楽と全体的セリー主義は、戦後の秩序の召喚として生じ、1951年に頂点に達した。この頃、ブーレーズの《ストリュクチュール》とシュトックハウゼンの《クロイツシュビール》が書かれている。同時に、1951年はまた、ケージの音楽における強力な原動力となる、偶然性の導入の年でもある。

《易の音楽》と《架空の風景Ⅳ》がケージのその例となる作品で、ヨーロッパにおける作曲家たちに新しい分野が開かれることになったのも、この偶然性の受容を通してである。51年代に彼は中国の「易経」を知り、占いの方法を作曲に用いることを着想し、コインを投げて音を確定していくという方法によってピアノ曲《易の音楽》を作曲した。これは作曲の過程に偶然性を採り入れるもので、「偶然性の音楽」と呼ばれた。作曲家はルールを作るだけであり、実際の音は偶然が決定するというものである。ただ、この方法では一度限り起こったはずのことが、楽譜に固定される。そこで後に何枚かの図形楽譜を用意し、演奏のたびに異なった組み合わせを選ぶことによって、全く違った結果を生む、つまり演奏の過程に偶然性を採り入れた「不確定性の音楽」をケージは考案した。これらは、ヨーロッパ近・現代音楽、特にセリー音楽の作曲家があらゆる細部まで完全にコントロールする態度とは全く逆のもので、セリー音楽が盛んだった頃のヨーロッパの作曲家たちにショックを与えた。「全体的セリー主義」は、全てを計算づくで表現しようとするものであり、対して「偶然性の音楽」は計算を意図的に排除するものである。両者は方法としては対照的だが、どちらも「音楽は自立したもので、作曲家の欲求や感情からは独立している」という考えに基づいている。

 

ケージが1952年に発表した《4分33秒》は、演奏者は一音も発さず、その間に聴衆が聞いた様々な周囲の音や沈黙が音楽の内容である、という禅問答のような作品である。ケージの極端な場合、芸術として固定された作品としての音楽作品の西欧的観念の完全な転覆を図るところまで進んでおり、作曲の必要性の拒否にまで及んでいる。「音楽というものは、私自身にとってもまた誰にとっても、静寂の中に聞こえてくるようなものがよいのだ」とケージは語っている。

 

こうしたケージの活動は、あらゆる音の現象・サウンドスケープに耳を開く新しい聞き方、また、種々のデザインの実験といった、「音楽」を超える新たな地平を開いたと言える。