buried in the sound 音に埋もれて眠りたい

好きなことを好きなように書き連ねます

パフォーマンス

レポート第5弾

 

聴衆や観衆がいるからこそ、パフォーマンスは成立する。人はそもそも、さまざまな能力を持ち合わせており、最も原初的なものは、呪能ともいわれる、呪術的能力である。原始の人々は縄文の土偶に託して疾病の治癒を願ったり、自然との闘いの成功を念じたりしていた。やがて狩猟社会から農耕社会へと時代が移ると、それまでの呪能も田のほとりなど、一定の場で繰り返される必要があり、それが芸能=パフォーマンスへの道を拓いたといえる。

 

パフォーマンスは、過去のパフォーマンスを参照して成就される限りにおいて一種の解釈行為である。楽譜の研究ひとつをとってみても、作曲された当時のヨーロッパではどのように演奏されたのか、どのように解釈されたのかという課題がある。全音符は4拍子なら4拍伸ばしたのか、カデンツァがあったのか、楽器編成は、など、当時の演奏を知る手掛かりは意外と少ない。

 

フジコ・ヘミングは著書「たどりつく力」の中で、自身の演奏スタイルについて次のように語っている。

 

私はむやみに速いテンポで、すっ飛ばすような演奏は好きじゃない。テクニックを見せつけたり、これでもかと攻撃するようなピアノは自分に向いていないし、そんなふうに弾こうとも思いません。(中略)ショパンやリストが生きていた時代、馬車が行き交う速度を思わせるテンポ。断じて現代のクルマ社会の速度ではない。そうした奏法が私の目指す音楽です。 

 

単に楽譜と速度記号に即しただけの演奏が、果たしてパフォーマンスと言えるのかについて考えさせられる一文である。

 

オーケストラのチューニング音「A」ひとつとっても、バブル期には高めに設定されるなど、当時の経済的な影響をも受けることがある。とすると、速度記号も時代によってテンポに幅があるのではないだろうか。作曲家が何を伝えようとしていたのか、時代背景にはどのような歴史があったのか、など、さまざまな角度からアプローチしたうえでの表現活動が、高いパフォーマンスを実現するといえる。

 

社会情勢や歴史的な現象がパフォーマンスに与える影響は大きく、聴衆はパフォーマンスを観察しているのではなく、実は相互関係によって参加している。

 

【参考】

日本芸能史1原始・古代/藝能史研究會編/法政大学出版局/1996年/第6刷

たどりつく力/フジコ・ヘミング幻冬舎/2016年