美術考古学−1

1年放置してました。久々に更新します。

 

このブログでは自分のレポートを公開しています。専攻とは別に、学芸員を目指していたこともありましたが、ひとつだけどうしても合格できないレポートがあり、そのレポートを3、4回提出してNG食らった時点で諦めました。結構悪足掻きしたとは思いますが。学芸員資格に必要な単位の中から、合格したレポートのみこれからぼちぼちあげていこうかなと。インディジョーンズ観て考古学者に憧れませんでした?私は憧れました(単純なんですよ)。

ご一読ください。↓ 丸写しはやめようね。

 

美術考古学−1

【芸能のおこり】

芸能の起源とその発展には、それぞれの時代相がある。古代における芸能の成り立ちが、そのまま中世の芸能の成り立ちにあてはまらず、同様に、近世の芸能と近代・現代との芸能の間にも、芸能を担う主体とその歴史的環境には著しい変化があった。日本の芸能がすべて古代に始まるのではなく、中世にも近世にも新しい芸能が誕生し、近・現代にあっても、たえずあらたな芸能が創造されてきた。これまでの芸能起源論においては、芸能は神事や祭儀を出発点とする見解が有力であった。だが、芸能は一日にして登場してきたものではなく、人間が芸能を演技するまでにいたるまでの期間にも、芸能的なるものが育まれ、芸能を生み出す母体が形づくられていった。

非日常の「ハレ」の場ばかりでなく、日常の「ケ」の場においても芸能は存在した。神や精霊にたいする信仰が希薄になると、宗教的信仰的制約にとらわれる芸能が具体化して、「ケ」の場における芸能の色合いが強まってくる。

階級社会の成立によって、芸能の場や芸能の性格が複雑になってくる。政治・経済・社会のしくみのなかで、芸能に階級性がつきまとってくる。支配者層に対する被支配者層の服属や従属のあかしとして芸能が演じられる場合には、神や精霊への期待と願望などをこめた芸能が、貢納や力役に伴う政治の場の芸能となり、芸能の性格を異にしていった例もでてくる。

周りを海で囲まれている弧状の日本列島での芸能は、とかくこの島国の内部だけで成り立ったと思われやすい。しかし、日本の芸能の内実化には、外なる要因が予想以上に大きな意義を担っていた。海上の道によって外来の芸能が伝わり、その受容のなかで、内外が重層し、あるいは一体化して日本的芸能が育まれていった。単に外来の芸能の伝播にとどまらず、外来の芸能を担う渡来人や渡来の集団があったことも軽視できない。外来の芸能の広がりと発展の背後には、それらの芸能を担う人間ないし人間集団が存在した。

古代芸能の多くは芸能集団によって生命を維持し、集団芸能として展開した。優れた個人の演技力に依存する芸能の個体化は、芸能の専門化、個別化が進んだ段階においてであった。古代芸能が中世の芸能よりも集団芸能としての性格を帯びるのは、古代芸能が専門化、個別化に先行して生活集団のなかで育成されていった状況が濃厚だったからである。

 

【呪能の前提】

呪術的行為としての呪能の痕跡は、縄文時代に伺うことができる。狩猟・漁撈・採集などによって暮らしを営んでいた縄文時代の人々は、厳しい自然のなかに生きた。自然に依存し、かつ自然の厳しさに耐えて集団生活を維持してゆく生活の中で、精霊などの呪力を信じ、災いを防ぎ、幸いをもたらすことを期待して呪術が発展した。土偶は、縄文時代の社会が呪術の社会であったことを裏付ける遺物である。

 

【呪能から芸能へ】

弥生時代の文化を特徴づけたのは稲作と金属器の文化である。稲作の普及に伴い、縄文時代の移動性に富んだ人々の生活は次第に定着化し、集落の規模も拡大してゆく。春の種まきと秋の刈り上げは、農耕生活者にとっての重要な折目となった。精霊や神に対する信仰も、田の民の増加に従って変化し、狩猟や漁撈の生活を背景とする山の民や海の民の信仰とは異なった様相を示すようになる。農事はじめや農事おさめのハレの日が、神や精霊の去来する節となり、ある一定の期間、田の精霊あるいは田の神として留まると仰がれた信仰を育む。人々の暮らしが定着化し、四季に順応した農耕生活が営まれるようになると、臨時的な呪能は農耕に伴う周期的反復的なまつりと饗宴に包摂される。その反復性と連続性のなかに、歌謡や舞踊などの形象化と固定化が進み、呪能から芸能への道が用意されていった。

 

【まつりの場】

神や精霊の来臨あるいは鎮座を信じてその威霊を感得し、神や精霊と人間が交流して、神や精霊に奉仕し服属する行為が、まつりの本源であった。現代ではまつりといえば、人間本位の希求を祈願することと考えられがちだが、それはまつりの発展的過程で生じた後次の姿である。

神事の歌舞ともいうべき神楽の由来については諸説あるが、最も有力なのが神座説である。神や精霊の来臨し鎮座する神座は、まつりにとって不可欠であった。もっとも、神や精霊に対する観念にも変貌があり、まつりの場はそれに対応して様々な形態をしるし、まつられるものとまつるものとの関係によって祭場の構成にも発展があった。

 

【巫覡の登場】

まつりの担い手として大きな役割を果たしたものに巫覡がある。単に神事や祭事に奉仕することに留まることなく、神や精霊と交流する巫術をもって託宣・歌舞・ト占・祈祷・治病を行うもので、いわゆるシャーマンにあたる。弥生時代の巫覡のありようを物語る史料に「魏志東夷伝倭人の条があり、卑弥呼についての記事がある。

 

【芸能と巫覡】

弥生時代における巫覡のありようは、呪能から芸能への道の有力な媒体となった。神や精霊の神がかりする巫女の態(わざ)、あるいは神や精霊を招来する巫女の態は、のちに「神遊び」といわれる芸態の母体となり、巫覡による神や精霊の託宣などの語り派「神語」の素地となった。岩戸に隠れた天照大神のためのアメノウズメの神がかりする様を「楽(あそび)」とし、「俳優(わざをぎ)」とした古事記日本書紀の受けとめ方は、巫女の神態が神遊びとみなされた事情の一斑が投影されている。

宮廷の神楽は、民間の里神楽と区別して御神楽と呼ばれるが、その神事芸能にも、神を迎えての神遊びの要素が強い。今では「遊び」は日常の延長としての娯楽や享楽のように退転してしまったが、本来の遊びの場は、日常生活の単なる連続の場ではなかった。むしろ非日常の場、ハレの場において人々は世俗から脱皮し、精霊や神と人間とが交流する場において遊びを感得した。遊びの内容は時代の変化に従って絶えず生まれ変わり、新たに創造されもする。遊びと芸能は不可分の繋がりをもったが、なんらかの集団を単位とする芸能は神遊び的な、非日常の聖なる折を節として形づくられていった。

 

【土風の集中】

古代芸能の形成過程にあって神や精霊のための芸能が保持された一方で、首長層に奉仕する芸能も成長していった。古墳時代の埴輪のなかには、琴を弾いたり鼓を打ったり、あるいは踊ったりする人物像があり、首長層に奉仕する芸能集団の存在を偲ばせる。階級社会の発展に伴い、首長層に対して被支配者層は、御贄や力役を負担する支配の仕組みが顕在化していった。芸能をもって首長に仕えるのは、御贄の貢納や力役の奉仕と無関係ではなかった。政治の場もまた芸能の演じられる背景として重要な意味をもってきた。首長層に奉仕した集団的芸能の姿態は、芸能ゆかりの埴輪人物群にも見出される。共同体的関係が根強く保有されていた段階では、支配の仕組みは集団を単位として組織される。被支配者層の多くが「部(べ)」の形態で服属関係をとるのもそのことに関わりをもつ。

各地域の暮らしの営みのなかで形づくられていった土風の歌舞は、地域ごとの首長層のもとで演じられたが、倭の王権が成立してくると、王権に対する服属のあかしとして、御贄・大贄の貢納や力役の奉仕に伴う芸能ともなり、やがて中央に収斂されていった。王権側からすれば、各地域の国魂を掌握することにつながり、地域ごとの共同体をイデオロギー的に支配することに役立った。祭事だけではなく、政治もマツリゴトであった。政治の場における服属集団の芸能奉仕は、服属のあかしともいうべき性格を帯びるようになり、代表的なものに、隼人舞・久米歌と舞・国栖奏・楯伏(節)舞などがある。

 

【参考図書】

日本芸能史1 原始・古代/藝能史研究會編/1996年/第6刷/法政大学出版局