目覚める名曲 伝道師としての演奏家

課題として書いたコンサートレポート。3年前なのでいろいろ情報が古いですが、ご容赦ください。これからぼちぼちアップしていこうかなと思っています。

レポート丸写しはやめてね♪ 

 

目覚める名曲 伝道師としての演奏家

数多くの作品が生まれては消えていく今日、眠りから目覚めさせる演奏家なくして、名曲は誕生しない。名作なのか駄作なのか、それすら議論されずにいつしか忘れ去られてしまう作品は、一体どれだけの数にのぼるだろう。

 

 3月11日は日本人にとって間違いなくある事象に思いを馳せる日であり、6年という歳月を経てもなお、傷ついた人々がいて、そのうえ「なぜ自分だけが生き残ってしまったのか」という自責の念に駆られる人々もいる。私にとっては自分の無力さに腹立たしくなる日でもある。それでもこの先何十年と月日が経てば、風化してしまうのだろうか?

 2017年3月11日「次代へ伝えたい名曲 第9回 竹澤恭子 ヴァイオリンリサイタル」を鑑賞した。特に震災を意識したプログラムではないが、「次代へ伝え残していくもの」とは何かについて考えた。

 

 オープニングはプーランクのヴァイオリンソナタフランス6人組の「反ドビュッシズム」を最も端的に示した作曲家として知られる。この曲はコミカルな作品が多いプーランクの中ではシリアスなもので、当時のプーランクの反ファシズム精神が表現されている。2楽章には「ギターが夢を涙に誘う」という詩の1節が掲げられており、私にはピアノの前奏が水の波紋に思えたが、ファシストに殺された詩人ロルカを悼む「涙」という解釈が正しいようである。あらゆる「奏法」が凝縮され完成されたヴァイオリンという楽器によって、表現の限界に挑戦したと思われる、色彩豊かな音楽であった。

 

ギヨーム・ルクー(1870-94)という音楽家は恐らくこのコンサートで私は初めて出会った。24歳という若さで病死しているため、残された作品自体が多くない。セザール・フランクに師事し、師から受け継いだ循環手法や主題間の密な関連性に基づく構成によるソナタは、偉大なヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイに捧げられている。繰り返される印象的な「モチーフ」が全楽章を通して出現し、モチーフをどのように味付けしていくのかを知る、教材のような面白さがある曲だった。

 

 近代フランスの流れを汲む洗練さと研ぎ澄まされた響きを持つ、リシャール・デュビュニョン(1968-)。「眠りの神 ヒュノプス」「恍惚のひと時」など、サティを彷彿とさせるタイトル、そしてベルリオーズ幻想交響曲のように夢とウツツの合間を漂う曲想。タイトルそのままの、神秘と色香のある雰囲気を携えていた。

 

 ラストはバルトークソナタ。鋭敏かつ精緻な不協和音的響きに、バルトークの最大の特徴であるハンガリー民謡が結び付き、現代性と民族性が融合したソナタである。鋭い響きのぶつかり合いと農民舞曲風の主題が、激しい生命力を生み出す、ダイナミックなフィナーレを演出していた。ヴァイオリンのボディをフルに活かした音の伸びは、決して他の楽器には真似できない芸当だと実感した。

 

「次代へ伝えたい名曲」は彩の国さいたま芸術劇場のシリーズ企画。(※現在はやってないかも)世界的舞台演出家、蜷川幸雄を総合舞台監督としていた芸劇。故・蜷川氏は、自嘲気味に語っていたことがある。

 

さいたま芸術劇場は、コンサートが終わった後にその“余韻”を語れる場所が、ホールから駅までの導線にひとつもない。だから東京のように集客が出来ないし、盛り上がりに欠ける。こんな酷い立地条件で、僕はわりと頑張ってるほうだと思うよ。

 

 今回のコンサートでは名ソリスト竹澤恭子が圧倒的実力で魅了したが、

 

あまり知られていない名曲を演奏することの誇りと同じくらいプレッシャーを感じる 

 

とも語っていた。次代へ残すために、「どこで、誰が、何を」表現し伝えていくのか。音楽家演奏家の役割、適切なロケーションなどについて、考えさせられる機会となった。